※この記事は旧ブログ「悲しき温帯」に掲載した記事を全面的に改稿したものです。
もう10年ほど前になりますが、岐阜県の養老町というところにある「養老天命反転地」という場所に行ったことがあります。今回は、当時撮った写真を挟みつつ、養老天命反転地について紹介します。
養老天命反転地について
巨大な芸術作品
養老天命反転地は、養老町の養老公園の中にある「巨大な芸術作品」です。最長部130m、最短部100mの楕円形、敷地の面積は約1.8haとかなり広く、全体がコンクリートかモルタルで作られた山のような壁のようなもので囲まれています。敷地の中はすり鉢状になっていて、内部には約25m(8階建てのビルと同じくらい)の高低差があります。そのため、敷地内の地面はほぼすべて斜面で、どこへ行っても足元が安定しません。敷地の中にも巨大な芸術作品が多数あり、中に入ったり、中を歩いたりすることができます。
養老天命反転地 施設案内
にしみの探検隊 養老天命反転地特集
養老天命反転地は、<テーマパーク>と呼ばれることもあれば、<体験型アート作品>や<ランドアート>と呼ばれることもあります。とにかく、それ自体、それ全体が芸術作品だということです。
養老天命反転地を造ったのは、荒川修作とマドリン・ギンズという、2人のアーティストです。1995年に造られました。ちなみに荒川とギンズは、2005年に東京都三鷹市にも「三鷹天命反転住宅」という集合住宅を建てています。
「天命反転」とは
「人は老いて死にゆくもの」というのは、人間にとって絶対の真理の1つ、天命であると言えます。荒川とギンズは、その「天命」を「反転」させる、つまり死に抗い、「死なない」ための芸術活動を行っていました。荒川とギンズの思想や哲学についてはまったく詳しくないのですが、養老天命反転地の中を歩き回った時のことを思い返すと、なんとなくですがその意味がわかってくるような気がします。
養老天命反転地案内
転倒やケガに注意
養老天命反転地は、養老町の養老公園内にあります。まず注意したいのが、養老天命反転地は<体験型アート作品>である、つまり中で身体を動かす必要があるという点です。全体的に斜面が多い(というかほとんど斜面である)ほか、急な岩場を登ったり、暗闇の中を歩いたりする場所もあります。また、人間の平衡感覚を失わせるような展示物が多数あるため、普通に歩いていただけなのにいきなり転倒することもあります。転倒やケガには十分に注意して、無理なく体験するようにしてください。
受付では、ヘルメットや歩きやすい靴を借りることができますので、利用を強く推奨します。
養老公園
「養老」という地名の歴史は古く、なんと8世紀まで遡ります。この地で老いた父を養っていた子が、山で酒が湧く泉を見つけました。子は毎日これを汲んで父に飲ませたところ、老いた父はどんどん若返っていきました。この噂を聞いた帝が当地を訪れて泉の水(酒?)を飲み、「もって老を養うべし」と言ったことから、この地は「養老」と呼ばれるようになりました。
養老公園は1880年(明治13年)に開設され、その後何度かの整備によって今の広さまで大きくなりました。
岐阜県 養老公園
写真は養老公園の中で撮ったもので、右手奥に見える白いアーチ状のものが養老天命反転地の外壁です。
楕円形のフィールド
先に書いたように、養老天命反転地は、全体が1つの芸術作品であるといえます。「楕円形のフィールド」は、養老天命反転地の中で一番大きな大きな作品です。
山のような壁のようなものに囲まれた一帯そのものが、「楕円形のフィールド」という作品です。
養老天命反転地記念館
養老天命反転地に入ると、初めに目に入る建物です。10年前はもう少し気の利いた名前がついていたような気がしますが……。内部はカラフルで直線と曲線が混ざった壁に隔てられており、狭い通路を進んでいくことになります。
また、天井にも地上と同じように壁があり、通路があります。
昆虫山脈
大きな岩がゴロゴロと積み重ねられており、登ることができます。登るためには岩の出っ張りを掴んだり足場を探したりして、全身を動かす必要があります。頂上からは濃尾平野が一望できるらしいのですが、当時は登るのに精一杯で、景色を楽しむ余裕がありませんでした。
頂上には井戸のオブジェが置かれています。人間が水を求めて岩山を登っている様子が昆虫のように見えることから、「昆虫山脈」と名付けられたそうです。急勾配で凹凸もあるので、登るときには注意が必要です。実際に怪我人が出ることもよくあるらしいです。小さなお子さんや、手足が弱っている方は、特に注意してください。
極限で似るものの家
色彩以外の構造は「記念館」と似ています。しかし「記念館」と違って壁の高さが高く、内部は迷路のようになっています。
家の中には、電話やベッド、椅子やトイレなどの家具か無造作に置かれています。
天井を見上げると、地上と同じように床があり壁があり、家具があります。
死なないための道
養老天命反転地の中の、小高い丘を切り通して造られた通路です。迷路のように分岐する、狭い通路を進んでいきます。
養老天命反転地には、「死なないための道」の他にも、「どんな道」など全部で148個の「道」があります。
精緻の棟
「道」を進んでいくと、丘の頂上にたどり着きます。そこに建っているのが「精緻の棟」です。棟からは、「楕円形のフィールド」を一望することができます。狭くて複雑に入り組んだフィールドを一望できること、フィールドの不安定さがこの一点に収斂することが、「精緻」と名付けられた由縁なのでしょうか。ちなみに「精緻の棟」も、「精緻」と言いつつ足元は不安定ですので、注意してください。
もののあわれ変容器
「極限で似るものの家」と似て、内部は狭い迷路のようになっていて、地面と対をなすように天井にも家具が配置されています。他の建物と違うのは、「もののあわれ変容器」の中の地面は「わりと平ら」だということです。しかし、内部に配置された壁や家具の配置は傾いていて、視覚と平衡感覚がズレる不思議な混乱を味わうことができます。
ネコ
公園内にはそのへんにいます。かわいいですね。
切り閉じの間
狭い入口から入ると、中は真っ暗闇です。壁を手探りしながら先へ進んでいきます。
一番奥には天窓があり、日本列島の形で光が差し込んでいます。この日は落ち葉が積もっていたのか、本州以外が消滅していますが……。
日本列島
「楕円形のフィールド」の中には、大小、形状や素材もさまざまな日本列島が配置されています。歩いている時は気づかなかったけど、振り返ってみたら日本列島の上を歩いていた、ということもよくあるので面白いです。
白昼の混乱地帯
養老天命反転地に行ったのはもう10年近く前のことなので、この写真が「白昼の混乱地帯」なのかどうかあまり自信はありませんが……「楕円形のフィールド」の中には、こういったオブジェが多数配置されており、感覚を惑わしてきます。
内部の写真
「楕円形のフィールド」内部のそのへんで撮った写真です。
あちこちに配置された通路、斜面、木々や茂み、オブジェによって、「自分が今どこにいるのか」「自分は今どこに立っているのか」ということを常に意識させられます。
養老天命反転地を歩いて感じたこと
荒川とギンズの思想と哲学
私達の普段の生活において、「死」を意識する場面はそれほど多くはないと思います。しかしながら、意識することはなくとも、私達は毎日確実に「死」へと歩みを進めています。それでは、荒川とギンズが探求した、「死に抗う」「死なないために」という思想はどういうものだったのでしょうか。
「肉体」を再確認する
日常の暮らしの中における私達の「肉体の動き」というのは、思ったよりも限られています。例えばキーボードをタイピングしたり、駅の階段を登り降りしたり、キッチンの戸棚からコップを取ったり……こういった「限られた動きの繰り返し」の中で、私達の肉体はそれ自体の輪郭を忘れてしまうことがあります。
養老天命反転地では、かなり無理な環境で、かなり無理な動きを強いられることになります。その中で、私達の肉体は、日常の暮らしの中で忘れてしまっていた「肉体」の動作を、改めて確認することができます。手足を伸ばして自由に岩を掴むことや、傾いた地面でバランスを取りながら歩くことで、自分の「肉体」の輪郭を再確認することができます。
「感覚」を再確認する
「肉体」と同じく、「感覚」についても同じことが言えます。普段の生活では、私達は垂直と水平で構成された秩序の中で生活しています。たとえば家の屋根は水平で壁は垂直、階段は水平と垂直の連続ですし、坂道の勾配も垂直と水平の組み合わせによって造られています。私達の生活空間の中で、垂直と水平の秩序から逸脱したものはほとんどありません。
養老天命反転地は、垂直と水平の秩序から完全に逸脱しています。「楕円形のフィールド」の中では、垂直な重力に対して水平な地面はほとんどありません。どこを歩いていても、常に傾きを感じます。
展示物は、建物もオブジェもほとんどが傾いています。というより、「視覚的に傾いているように見える」と言うほうが正しいかもしれません。今自分がまっすぐ立っているのかどうか怪しいのですから。一見傾いていように見えるものでも、それが本当に傾いているのかどうかは分かりません。傾いているのはオブジェではなく、自分かもしれません。
よって私達は、日常生活では当たり前に保障されている垂直と平行を捨て、自らの肉体から直接得られる「感覚」だけを使って、楕円形のフィールドの中を進んでいくことになります。気を抜くと転んだり何かにぶつかったりしますから、なおのこと「感覚」を鋭敏にしなければなりません。歪められた空間、視覚もあてにならない(全部傾いているし、中が真っ暗な展示物もある)、ほとんど無秩序な状態の中で、足元を一歩一歩踏みしめて、壁や地面を手探りすることで、自らの裸の「感覚」を再確認することができるのではないかと思います。
「死に抗う」とは
夏目漱石の『草枕』という小説に、「智に働けば角が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。とかくに人の世は住みにくい。」という有名な一節があります。まったくもって漱石の言う通りで、私達は意識しなくとも、あちらこちらで理知と感情のバランスを取りながら、日々なんとか生活しています。
しかし、そうやって「バランスの良い」生活を送っているうちに、いつしか私達の肉体、私達の感覚は日々に慣らされていき、本来の形を忘れて、正体を失って、延々と続く繰り返しの流れに取り込まれてしまう。この流れの行き着く先の結末が、荒川とギンズが抗おうとした「死」なのではないでしょうか。
荒川とギンズにとって、自分の肉体、自分の感覚を没却したまま日々の生活を続けることは、死へ向かう流れに無抵抗に身を委ねることだったのでしょう。だからこそ、時にはあえて流れに抗うことで、自らの肉体と感覚を再び自らのものとすることが、荒川とギンズにとって「死に抗うこと」であり、「死なないため」の営みだったのだと思います。
余談:ゆるスポーツ
養老天命反転地では、肉体の動作や感覚を無秩序の中に開放することで、自己の肉体や感覚を再確認することができました。これと似たアプローチで、自己の肉体や感覚を再確認することができる、「ゆるスポーツ」というものがあります。
「ゆるスポーツ」は、元々は「スポーツ弱者(運動音痴の人や高齢者、身体に障害がある人など)」が楽しめるスポーツを考えるところから生まれました。ルールや道具は、動作や感覚(身体の動作や視覚・聴覚など)に制約のあるスポーツ弱者に合わせて作られています。よって、五体満足で健康な人が「ゆるスポーツ」に参加する場合、そうではない人と同じ制約を受けることになります。
私も過去に一度、「ゆるスポーツ」のイベントに参加したことがあります。スポーツですので、肉体を動かして、感覚を働かせます。しかし、私の肉体の動作や感覚の働きは、ゆるスポーツにおいてはあまり役に立ちません。視覚障害者の方のための競技では、視覚を使う必要がありません。四肢が不自由な人のための競技では、四肢を使うことができない状態で試合をします。筋力や動作が不自由な人のための競技では、素早く動くと減点されます。そんなわけで、競技中は非常にもどかしい思いをしました。
しかし、肉体の動作や感覚が制約されるという、日常生活の中ではあまりありえない不自由な状況を体験することで、かえって自分の肉体と感覚を再確認することができた気がします。
養老天命反転地とゆるスポーツとを比較すると、解放と制約、無秩序と秩序、アプローチの方向は真逆であるように見えます。しかし、解放にせよ制約にせよ、無秩序にせよ秩序にせよ、私達が普段の生活の中で忘れていた、肉体の輪郭や裸の感覚を思い出させてくれるような気がします。この点で、荒川・ギンズの試みと、ゆるスポーツの取り組みには、共通するものがあると思います。
養老天命反転地を体験するには養老町まで行かなければなりませんが、ゆるスポーツのイベントはあちこちで開催されているようですので、こちらに参加してみるのも良いでしょう。
荒川修作、マドリン・ギンズの著書
「養老天命反転地」施設案内
養老天命反転地
〒503-1267
岐阜県養老郡養老町高林1298ー2