先進国の民族問題 その2(スペインとバスク)

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歴史

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民族問題シリーズ、2回目はスペインとバスクです。今回も雑多な記憶や情報を寄せ集めて書いていますから、真に受けることなく読んでください。

バスク地方

バスクとは、おおよそスペインとフランスの境界あたりを指す、歴史的な地方名です。具体的には、ヨーロッパ大陸とイベリア半島を隔てるピレネー山脈の西端あたり、北を大西洋(ビスケー湾)に接する地域のことをいいます。

イベリア半島(現在のスペイン・ポルトガル)の歴史は波乱に富んでいますが、バスクの歴史は案外平和だと思います(もちろんしょっちゅう戦場になっていますが)。理由はいろいろ考えられますが、その一つとして中世では(北アフリカから地中海を渡りイベリア半島を支配していた)イスラムとヨーロッパの、近代にかけてはスペイン・ハプスブルク帝国とフランスの緩衝地帯という、独特な地位があったのではないかと思います。

バスク地方をさらに細かく見ると、ピレネー山脈の北にある3つの地域と、南にある4つの地域に分けられます。これらの地域はそれぞれ高度な自治機能を持っており、概ねどの時代の支配者からも政治的独立や免税などの特権を受けていました。

スペイン・バスク

バスク地方7地域のうち、ピレネー山脈の北側、フランスに接する3地域は、17世紀にフランスに編入され、フランスの州となりました。こうして、バスク地方の中に、フランスとスペインの国境線が引かれました。

フランス側のバスクは、フランス革命による政体変化で、それまでの特権を手放すことになります。

スペイン側のバスクは、大西洋湾岸に貿易港を有していたこと、免税特権を得ていたことなどから、大いに栄えます。バスクにおける政治・経済の特権は「フエロ」と呼ばれ、政治情勢の変化によって存続が危ぶまれることもありつつも、スペインの支配者によって脈々と遵守されていました。

半島戦争とフエロ

さて、18世紀の終わり頃、スペイン王家がフランス革命でルイ16世の処刑に反対したことで、スペインは革命政府から宣戦布告を受け、フランス革命戦争に巻き込まれていきます。その後は間もなく、ナポレオン戦争の中でも特に悲惨な戦い、半島戦争が始まりました。

スペインはイベリア半島からナポレオンのフランスを追い出すことに成功しましたが、膨大な戦費と国土の荒廃で、国は疲弊しきっていました。そしてそれは、スペインとフランスの間に位置し、半島戦争最後の決戦の舞台となったバスクにも同じことが言えました。

さらに、産業革命による経済の変革、貿易港としての存在感の低下などもあって、バスクの経済は追い詰められていました。バスクのブルジョアジーたちは、バスク経済とスペイン経済の統合、スペインによるバスク経済の庇護を望むようになります。そのために、バスク経済を独立させているもの、フエロの放棄が提案されました。

フエロの放棄はバスクの総意かといえば全然そんなことはなく、あくまで都市部の商工業者や交易業者といった、ブルジョワたちの願いです。彼らの商売は、イギリス製品に圧迫されており、スペインの市場を欲していました。

農村部へ目を向けると、フエロを放棄してスペイン経済と同一になろうなどと言う者はいません。なぜなら、バスクの農作物は、スペイン市場に対してまったく競争力を持たなかったからです。フエロを放棄すれば、スペインの農作物がバスクを席巻し、バスクの農民が困窮するのは目に見えていました。

カルリスタ戦争と非バスク化

時代は下って19世紀前半、スペインでは、王家の中の自由主義者と封建主義者が対立し、王位継承を巡って、3度、およそ30年にわたる戦争が始まりました。一方の旗印であったカルロス4世の支持者に由来して、「カルリスタ戦争」と呼ばれます。

自由主義者が奉戴するイザベル2世と、封建主義者(カルリスタ)が奉戴するカルロス4世との長きに渡る戦争は、一貫してイザベル2世が勝利を収めました。この戦争を経て、スペインは近代化されていき、伝統的な諸制度も解体されていきます。そして、フエロもそれに含まれていました。

19世紀の後半には、バスクは長年守られてきた特権を手放すことになります。バスクはフエロを失いましたが、その後のバスク地方は、スペインの工業地帯として目覚しい発展を遂げることになります。工業資本とともに、他の地域から多くの労働者が流入してきました。

バスクの外から入ってきた労働者たちは、バスク語ではない言語で会話して、バスク的ではない習慣の生活を送ります。移入してきた労働者は、バスク地方の人口の過半を占めるようになり、バスク地方は「非バスク化」していきました。

バスク・ナショナリズム

バスクの伝統や規範が失われることへの危惧から、バスク・ナショナリズムは始まりました。

バスク・ナショナリズムの起源となったサビノ・アラナは、血統や言語、フエロや歴史を根拠として「バスク人」を定義し、本来の7地域(フランス領バスク3地域+スペイン・バスク4地域)が一体となった国家像を描きました。

バスク・ナショナリズムは、バスク地方のビスカヤ県から始まり、政党「バスク民族主義党」や議会を通して広まりました。当初はバスク地方の独立を目指していましたが、途中からスペイン国内での自治に方針を転換するなど、現実的で折衷的な思想だったようです。

1936年には、スペインの共和国議会でバスク人の自治政府設立が承認されて、バスク民族主義者の願いは叶えられたかのように見えました。しかし翌年から始まったスペイン内戦と、その後のフランコ独裁体制によってその願いは潰えて、バスク民族主義は長い冬の時代を迎えることになります。

フランコ独裁政権とETA

スペインのフランコ政権は、強力な国民国家を志向し、少数派を弾圧しました。バスク人も、バスク語やバスク国旗を禁止されました。この時代には、多くのバスク人がスペインを追われて、難民となりました。

バスク・ナショナリズム運動を牽引していたバスク民族主義党はスペインから脱出し、ニューヨークに亡命政府を建てて、バスクの自治を得るべく活動をしていました。しかし、東西冷戦下におけるフランコ政権は、西側諸国にとって必ずしも敵対的ではなかったため、国際的な支援は得られませんでした。

一方でスペイン国内では、バスク民族主義党の青年たちがリーダーとなって、フランコ独裁政権へのレジスタンスとバスクの独立を主張する「バスク祖国と自由(ETA)」が結成されました。

ETAは武装闘争路線を採り、1960年代からスペイン各地でテロ活動や要人暗殺、銃撃といった暴力的な反体制活動を繰り広げます。1973年には、時のスペイン首相を爆殺しました。

1975年にフランコが亡くなると、スペインは独裁から民主主義(立憲君主制)へ舵を切ることとなります。1978年、バスク地方は悲願であった自治を獲得し、バスク自治州が誕生しました。また、バスクはフエロを回復しました。ただし、バスク自治州に参加したのはスペイン・バスク4地域のうち3つで、残る1地域であるナバーラは、ナバーラ自治州として別の自治体となりました。

民主化後のバスク独立運動

バスク自治州では、主にバスク民族主義党が政権を担い、州の政治を行っています。

バスク民族主義党は、現在でもバスクの自治・独立のために活動を続けており、バスクのより高度な自治を求めて、スペイン政府や議会への要求を行っています。もちろん、バスクの自治を拡大するための法案を提出するという、民主的で平和な形の要求です。

一方のETAですが、スペインが民主化した後もテロリズムが止みませんでした。バスク地方だけでなく、スペインの首都マドリードやバルセロナなどの大都市でもテロ行為を続けました。

ETAに対して、スペイン政府は強い姿勢で対峙します。当局はETAを厳しく取り締ました。また、「反テロリスト解放グループ(GAL)」という非公式の武装勢力を使って、ETAの構成員や幹部を殺害するという、白色テロあるいは汚い戦争のような対策も採られていました。

1998年、バスクのように民族間の衝突が続いていた北アイルランド紛争が和解に至り、また2001年の同時多発テロ以降はテロリズムへの非難が高まったにも関わらず、やはりETAのテロ行為は止みませんでした。

フランコ政権時代、バスク地方の北部を領有するフランスは、国内のETAを厳しく取り締まることはしていませんでした。そのため、フランス領バスクはETAの「根城」となっていました。しかし、フランコ政権が終わってからは方針を転換し、フランス国内のETAは厳しく摘発されるようになりました。

スペインとフランスでの取り締まりが徹底されることで、ETAは弱体化していき、2011年には武装活動の停止を、2018年には組織の解体を宣言しました。これにより、ETAによる長きに渡るバスク紛争は、一応の終局を見ました。

同じ「バスク・ナショナリズム」「バスク独立運動」ですが、バスク民族主義党は、ETAの暴力路線に決然と反対しています。バスク自治州とETAを同じテーブルに載せて語るべきではありませんが、バスク・ナショナリズムは民族主義の困難さを語る一つの事例だと思います。

民族主義の光と影

バスク地方は歴史的に独立した地域ではありますが、昔から国家として独立していたわけではありません。バスク地方を統治した王朝としては、ナバーラ王国やカスティーリャ王国があります。しかし、いずれの王朝もピレネー山脈からイベリア半島に向かって領土を広げており、バスクはその一地域に過ぎなかったため、バスクを支配した歴史的な国家にバスク・ナショナリズムのルーツを求めるのは難しいでしょう。

バスク地方のユニークさについて考えるなら、国家の歴史以上に、フエロによる高度な自治が挙げられると思います。バスクは多くの王朝によって支配を受けましたが、フエロによってバスクの形を保っていました。バスクの人々は、国家という枠組みに依らずとも、フエロによってずっと一体だったわけです。

「バスク人」という民族的な括りが生まれたのは19世紀後半と、それほど古いわけではありません。しかし、この時代の出来事が、バスクと非バスクを決定的に区別したのだと思います。

まず、19世紀末、カルリスタ戦争の集結によって、スペイン王国は中央集権的な国民国家を志向していくことになります。中央集権化は、地方自治の放棄を要求し、国民国家は国民の同質性、つまり民族性の放棄を要求します。

カルリスタ戦争が終わり、バスクの人々は、「スペイン人」になることを要求されたわけです。この圧力は、それまで明確な民族意識を持たなかったバスクの人々に、「バスク人」というアイデンティティを与えました。

もう一つ、「バスク人」が生まれた時代的な背景として、工業化による外部からの人口流入と、それによる地域文化の希薄化が挙げられます。外部からの「異物」によって、バスクの社会が変質していく中で、バスクの人々は、それまでは自明であった「バスクとは何か」「バスク人とは何か」という問いに突き当たります。

その問いに答えたのが、「バスク民族主義の父」サビノ・アラナでした。彼は「血族、言語、統治と法、気質と習慣、歴史的人格」という5つの要素をもって、民族としての「バスク人」を定義し、バスク人とそれ以外の民族とを区別しようとしました。

彼は中でも「血」を強調して、特にスペイン人に対するバスク人の優越を主張しました。これは、20世紀に世界中で表れる民族主義に共通する特徴の一つです。

アラナから始まったバスク民族主義と独立運動は、おおむね平和裏に行われていました。19世紀末にバスク民族主義党が結成されてから、1930年代にスペイン内戦が始まるまで、一貫して選挙と議会を通じて、自分たちの主張を行っていました。

1920年代から1930年代にかけて、政府によって独立運動が非合法化され弾圧された時期ですら、バスクの政党は文化クラブなどに扮して取り締まりから逃れながら、穏健かつ着実に活動を続けていました。

そして1936年には、自治政府を設立する許可を得ます。1世紀以上に渡る活動が実を結んだわけです。この果実が翌年から始まる内線で潰えてしまったのは、バスク民族主義にとって一つの大きな悲劇と言えるでしょう。

バスク民族主義にとってもう一つ悲劇だったのは、バスク独立運動が、ETAによってフランコ独裁政権への反抗というベクトルと結びつけられてしまったことです。

ETAも、当初は素朴にバスク独立を目指していたのかもしれません。しかし、強力な国民国家を志向していたフランコ政権下では、政治的少数派や独立運動は暴力的に抑圧されていました。

暴力を肯定するつもりはありませんが、ETAが暴力路線を採ったことはやむを得ない部分もあると思います。他に方法が無いのですから。しかし、ETAが自らの主張を実現するために暴力路線を採ったことは、バスク民族主義にとっては大きな悲劇でした。

民族主義とは、つまるところ「自分たちの民族」と「それ以外」とを区別して、「自分たちの民族」の利益を実現しようとする思想です。民族主義の実現には、自分たちの民族以外を排斥するプロセスが含まれることがままあります。排斥のプロセスにおいて採用される方法として、取り締まり、差別、弾圧、そしてETAが採用したような暴力があります。

民族主義すべてを悪し様に言うつもりはありません。現にスペインでは、バスク民族主義党が穏健かつ合法的に民族主義を実現しようとしています。しかし各国の歴史を見ると、民族主義と暴力がセットで表れるケースの方が圧倒的に多いでしょう。バスク民族主義党が平和裏にバスクの自治を達成したことは、民族主義の歴史における一粒の奇跡と言っていいかもしれません。

民族主義と暴力は、ETAのような非権力の少数派だけの問題ではありません。例えばナチス・ドイツは、権力を持った多数派が民族主義による暴力を行使した良い例です。

同じバスク・ナショナリズムから生まれたものでも、バスク民族主義党による自治の獲得は民族主義の正の側面を、ETAによって繰り返されたテロ行為は民族主義の負の側面を、まるで光と影のように鮮やかに表しています。

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