「民族問題」と聞くと、例えばアフリカやアジアの発展途上国における問題をイメージする人は少なくないと思います。
実際に発展途上国(特に旧植民地国)では、様々な理由から民族紛争が多発してますので、「民族問題=発展途上国」と考えるのは無理もないことかもしれません。
では先進国は民族問題とは無縁なのか?というと、実は全然そんなことはありません。
先進国の抱える民族問題について、いくつか紹介したいと思います。まずは北アメリカのカナダと、カナダのケベック州における民族問題です。
ちなみに、これからの記事は、主に大学などで習ったこと、過去に読んだ本などの記憶を参照し、それを様々な方法(インターネットとか)で補完しながら書いています。
私独自の見解が多分に含まれているのは勿論のこと、誤った理解や致命的な事実誤認などが含まれていることは大いにありえますし、何もかもが間違っている可能性もあります。
ここに書いてあることを鵜呑みにすることは絶対にしないでください。話半分程度で読んでもらえると助かります。
ヌーベル・フランス植民地
ケベック州は、カナダの東部に位置する州の一つです。カナダは大変広い国なので、ケベック州も州の一つとはいえ、日本の約4倍の面積を持ちます。
最初にケベックに入植したのは、フランスでした。17世紀から18世紀にかけて、多くのフランス人が大西洋を渡り、現在のケベック州のあたりに「ヌーベル・フランス(新しいフランス)」と呼ばれる植民地を築いていきます。
この時代には、イギリスも北米に植民地を築いていました。フランスとイギリスの植民地獲得競争が、後の「フレンチ・インディアン戦争」に繋がります。
フレンチ・インディアン戦争
18世紀中頃に、フランスとイギリスの間で、北米植民地を巡る戦争が勃発しました。「フレンチ・インディアン戦争(北アメリカの植民地を巡るイギリスとフランスの戦争)」です。この戦争にフランスが敗れたことで、フランスは北米植民地を失い、ケベックの支配権はイギリスに渡りました。
新たにケベックの支配権を手にしたイギリスは、以前からケベックに住んでいたフランス系住民の同化(あるいは放逐)を図ります。ところが、フランス系住民がケベックを離れなかったのに加えて、イギリス系住民のケベックへの入植も進みませんでした。
とはいえケベックの支配権を手にしているのはイギリスですので、少数のイギリス系住民が多数のフランス系住民を支配するという構図が出来上がりました。この構図は、カナダがイギリスから独立した後も変わりませんでした。
さらに、カナダがアメリカとイギリス(つまり英語圏)の資本を多く受け入れたことで、この構図は一層強化されることになりました。ビジネスの主要言語が英語になったことで、経済的に豊かな英語話者と、経済的に貧しいフランス語話者という構造ができたのです。
「静かなる革命」と「ケベック人」
時代は下り、1960年代になって、ジャン・ルサージ率いる自由党がケベック州選挙を制しました。自由党の政策によって、少数の保守的な英語話者たちに代わって、多数の自由主義的なフランス語話者たちが、ケベックの政治を担うことになりました。ここから、「静かなる革命」と呼ばれるケベック州の改革が始まります。
ルサージたちが率いる州政府は、産業や金融に対して積極的にコミットして、州内の開発や福祉の充実を図りました。これらの試みは成功し、ケベックは豊かになりました。
改革は文化や教育の分野にも及びました。とりわけ影響があったのが、言語です。ケベック州では、一連の改革の中で公用語はフランス語のみと定められました。これによって、多くの英語話者・イギリス人住民がケベックを去ることとなりました。ちなみに、カナダの公用語は英語とフランス語の2言語です。
「静かなる革命」の成果として最も特筆すべきなのは、ケベックのフランス系(フランス語話者)の住民に「われわれはケベック人だ」という意識を与えたことでしょう。「カナダの中のフランス系住民」が「ケベック人(ケベコワ)」に変質し、民族としてのアイデンティティを獲得しました。これが後に続く、ケベックにおける民族主義の萌芽となります。
ケベック独立運動
1960年代、「静かなる革命」と時を同じくして、ケベック党をはじめとしたケベックの分離独立を唱える諸政党が州議会に誕生します。これらの政党は、ケベックの分離独立、あるいは自治権強化の要求を掲げて、カナダ政府と駆け引きを繰り広げます。
ただし、各政党のイデオロギーや民意は必ずしも統一されていたわけではありません。自治権の究極として分離独立を求める勢力もあれば、カナダの中でのケベックの自治権拡大や、ケベックの経済的独立を求める勢力もありました。
また、ケベック州の住民のすべてがケベック・ナショナリズムに共感していたわけではなく、現状維持を望む住民もいました。
ともあれ、「ケベック人」という民族が、固有の領域として「ケベック」を求める、ケベック独立運動が始まったわけです。
「ケベック独立」を巡るケベック州内の政治情勢は、ケベック独立を求める議会政党だけでなく、ケベックにおける他の独立勢力(特に後述のFLQ)や、カナダ政府のフランス系住民に対する政策の影響を受けつつ、今日に至ります。
ケベック解放戦線(FLQ)
1963年、またまた「静かなる革命」と時を同じくして、ケベック州の分離独立を主張する急進左派団体「ケベック解放戦線(FLQ)」が結成されます。FLQは、爆弾テロなどの暴力的な方法によって、ケベックの分離独立を主張しました。
1970年10月、FLQは「オクトーバー・クライシス」と呼ばれる、一連のテロ事件を実行しました。
オクトーバー・クライシスでは、FLQがイギリスの領事を拉致、またケベック州の副首相を拉致・殺害するなどの行為を行いました。さらに、FLQの支持者による扇動なども相まってケベック州は恐慌状態に陥り、戦時特措法が課され、警察権が一時的に強化されました。
この事態の中で、FLQによるテロは厳しく取り締まられ、結果FLQは消滅しました。
一方で、ケベック州の治安当局(さらにカナダ軍も出動していました)は、急進的な独立派であるFLQと、それ以外の穏健な独立派であるケベック党員などを区別することなく、「分離主義者」として厳しく摘発しました。
かなり強権的な取り締まりでしたが、当時は(FLQの活動と政府のキャンペーンによって)FLQがカナダ全土にとっての脅威であると認識されていたため、この措置は強く支持されました。
オクトーバー・クライシス以降、市民がテロを嫌気したこともあり、しばらくはケベック独立に対する支持は低下することになります。その後、テロリズムではなく民主的な方法によって独立を達成するという意識の中で、ケベック独立運動は再び支持を得るようになります。
現在のケベック
FLQは消滅して、暴力的なケベックの独立運動は解消されました。しかし、ケベック人の独立を求める声が無くなったわけではありません。かといって、独立がケベック州民の総意かといえば、やはりそうでもありません。
1980年に行われた住民投票では、6割の住民がカナダからの経済的独立に反対し、1995年に行われた住民投票では、5割を僅かに上回る住民がケベック州の独立に反対しました。
ケベック州の議会に参加する政党の立場も、相変わらず様々です。分離独立を主張する政党もあれば、カナダの中での自治拡大を主張する政党もあります。「ケベック人のケベック」がどういった形で実現されるのかは、まだ分かりません。
ケベック、そして、「ケベック人」を巡る問題は、今も(今は)穏やかながら続いています。
「ケベック人」という民族の誕生
ケベック人は、最初からケベック人であったわけではありません。そもそものルーツはフランスからの移民であり、元々から「ケベック」という人種や民族があったわけでもありません。1960年代までは、おおむね「カナダ国内の少数派であるフランス系住民」という位置付けであり、「自分は(カナダ人ではなく)ケベック人だ」と考える住民は少数派だったのではないかと思います。
ただし、ケベックの社会は暗黙の了解の中で、常にイギリス系住民とフランス系住民とを区別していました。特に言語という明らかな点において。英語とフランス語という言語の差異は、イギリス系の住民とフランス系の住民とを明瞭に区別しましたし、言語の差は英語圏の経済からフランス語話者を排除していました。
やはり契機は1960年代の「静かなる革命」ではないでしょうか。ルサージのケベック州政府が行った諸政策は、カナダとケベックとを区別しました。ケベック・ナショナリズムが「静かなる革命」をもたらしたとも言えますし、「静かなる革命」がケベック・ナショナリズムを生んだとも言えます。このへんがケベックの歴史の妙でしょうか。
「静かなる革命」を経て、カナダとケベックとの境界はますますはっきりとした輪郭を帯びるようになります。こうして、「ケベック州のフランス系住民」は、「ケベック人」という民族的アイデンティティを獲得していくことになります。新たなる民族の誕生は、すなわち他の民族との新たな摩擦の発生を意味しました。